火について

セラピストの土田です。今日は火について話をします。

 くすぶるたき火に息を吹きつけると、かすかな赤が薪をつたうように広がり炎が立ち現れる。その動きは生き物のようにゆらゆらとしていていくつもの赤い点は町の明かりを思い起こさせました。人も家もゆらゆらとしていて息を吹きつけるとすぐに形を変えてしまう、そんな町のことをあれこれ想像しているうちに町は黒い炭となり灰になっていく。

 囲炉裏の周りにはカップルと一人の男が座っていて、都会から離れ夜を過ごしている。カップルは東京での新しい仕事の話をし、男はうなずくようにニコニコとしている。僕は話しにうまく加われず、一人でたき火を見ていた。囲炉裏を囲む石の上に立てられたろうそくはだらしなく溶けて広がり足の小指ほどの長さになっている。その溶けたろうそくのかたまりを指でかいて石から削り取りたき火に投げ込むと、一瞬火は不自然に強くなりカップルの話の流れが止まる。電球の明かりには蛾が群がり時折カツンと音を立てている。蛾たちは明かりを月とかん違いして、そのニセモノの月を通り過ぎないように回転したり、月へとたどり着いてしまい、まごまごとしていたりする。その蛾を一匹ずつよく見てみるとほとんどが違う種類の蛾たちだった。同じ光に惹きつけられている様々な種類の蛾たちの姿を何となく眺めていると、カップルの話が終わり、たき火にはやかんのお湯がかけられ町の明かりのように見えた赤い点も消えてしまった。

 今の話は数年前の田舎の思い出ですが、太古の昔から人は火をたきつづけてきました。火は暖かさと明かりを与えてくれ、同時に深い安らぎを感じさせ、夜の闇の恐怖や昼間の狩りの興奮を和らげてくれたのではないかと思います。寒い夜には眠らずに一晩中火の番をしなければならないときもあったでしょう。時にはたき火にいぶされもうろうとする中で幻のような炎を見つめ火の番をしていたかもしれません。

 今も昔も火は人々を現実とは異なる不思議な世界へと導き、心の安らぎを与えているのではないかと思います。しかしその必要性は昔のほうがはるかに強かったのではないでしょうか。今のようにボタン一つで何でもできる訳ではなく、ライターやマッチも無いわけですから、苦労して火種を作り大切に大切に火を使っていた事は容易に想像できます。苛酷な環境の中、火への気持ちはとても強いものになっていったと思います。

 僕が山歩きをしていたときのことですが、きれいな沢を見つけ降りていくとつやつやとした黒い岩がつるりと滑りそのまま2メートルほどずり落ちてしまい、上へは戻れなくなってしまい、迂回するようにして上がると、全く別の場所に出てしまいすっかり道に迷ってしまいました。日が暮れる頃になっても元の道には戻れず、小さな渓谷のわきに土管が置いてあるのを見つけ、その中で一夜を明かすことにしたのです。まだ暗くなりきらないうちに、種火となる杉の枝や枯葉を集め少し太めの枝も集めました。土管の真ん中辺りでたき火を始め何とか火をつける頃にはあたりはすっかり暗くなり寒さには耐えられなくなってきます。たき火の火を絶やさないように真っ暗な中、薪になる木を探してみても、水場の近くでしけった木ばかりでした。手探りで湿り気を確かめながら乾いた木を探し何とか薪を集めました。土管の中のたき火からのかすかな明かりだけを目印にして方向を見定めていましたが、その光もたき火の勢いが強い間は安心なのですが薪集めに気を取られているとあっという間に火は小さくなり土管がどこにあるのかさえ分からなくなってしまいます。たき火の火だけでは寒さに耐えきれず、大きめの石を拾ってきて火で熱しそれを背中のほうにあてて何とか暖をとっていました。風が強く吹き、木々が激しく揺れる音が聞こえてくる。土管の中はほとんど風は吹かず、どうやら山の別の方で風が吹いているようです。ただそれだけのことなのですがたき火にあたっている自分が妙に幸せな気がしました。

 じっとたき火を見ているとだんだん焦点がずれてきて、まるでゆれる船が近づいてくるようにたき火が近づいてきて視界一面に広がり、火の粒の一つ一つまでが目に入ってくる。その瞬間頭の中は真空状態のようになり今までの思考を止め、目の前のたき火に見とれるようにぼんやりとしていました。

 空の色がかすかに青みがかり鳥の声が聞こえてくる。しばらくすると朝がやってきて、土管の外に出ると周りは霧が立ち込めたように白くかすんでいました。真暗な中で目をこらしすぎたため光に敏感になってしまったのです。葉っぱに反射する日の光がライトの明かりのように輝き、まるでうっすらと雪が積もったかのようでした。その後何時間か歩き回り何とか元の道に戻る事が出来ました。服には火の粉が焦がしたいくつかの黒い点があり、帰宅後も目はたまらなく痛み、しばらくは明かりがやけに大きく見えていました。

 たき火の火が視界一面広がった時、寒さのため一瞬でしたが、確かに普段とは違う精神状態になり、まるで別の世界へと連れていかれたようでした。そのときの感覚は大昔の人々の火に対する気持ちに近いものだったのではないかと思っています。東京に帰った後も郷愁のようにたき火への思いは蘇ってきます。それはただの幻想のようなものなのかもしれませんが、大昔からの人と火の歴史を考えると、この百年の急激な変化のほうが幻想のように思えてくるのです。生活の中の必要なことを見直し自然の中からも文明の中からも選ぶ事ができるのは素晴らしい事だと思いますし、それがロハス的な今日のあり方なのかなと思います。ぼくも少しずつですが生活の見直しを進めバランスの取れたライフスタイルをつくっていきたいと思っています。

2006-04-09 | Posted in 未分類No Comments » 

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