落ち葉の中の世界
セラピストの土田です。
落ち葉の季節になるときれいな落ち葉をいたる所で見ることができますが、よく探してみると、どの季節でも毎日でも道のわきや電柱のまわり、街路樹の下など様々な場所で落ち葉を見つけることができます。
時には風に飛ばされてきたのでしょう、僕の住むマンションのドアの目の前でも落ち葉が見つかる事があります。
僕はいつも落ち葉に目を光らせていて、気になるものを拾ってはポケットの中へしまい込んでいます。その一枚一枚が異なっていることはもちろんですが、色彩や模様、形は複雑で、しげしげと眺めていると、言葉ではうまく言えないのですが、不思議でいて懐かしい感じがし、心の中の滞りがスーと流れていくような気がします。
僕が落ち葉を集めだしたきっかけは、山へ鹿よけの柵を作りに行った時のことでした。
鹿は食料が少なくなると木の皮を食べてしまい、木の周りの皮がすっかり食べられてしまうと、養分が上へといかなくなり、木は立ち枯れてしまうそうです。その為、鹿が入れないようにある一定の範囲をアミで出来た柵で囲い木を守るのです。
その時は五月頃だったと思いますが周りは落ち葉だらけで、あまりにきれいだったので、何枚か拾ってみると、虫食いの後が不思議な形を作っているもの、葉の中心の色素が丸く分解され目のような形になっているもの、白いクモの巣のようにカビが広がっているものなど、様々な落ち葉を見つけることができました。
一緒に鹿よけの柵を作った研究者の方は植物に詳しく、いろいろな種類の植物を教えていただいたのですが、今はもうすっかり忘れてしまいました。ただ、落ち葉が作り出す世界に心のどこかがくすぐられるようで、気に入った落ち葉を集めて東京に送ることにしました。
その落ち葉たちは、二年ほど経った今でも僕の部屋の小さなタンスの中で、少しずつ枯れていきながらも不思議な世界を見せてくれています。
タンスの中の落ち葉の色は、緑や黄・赤だったのが次第に茶色の枯れた色に変わっています。
色はいったいどこへ消えてしまったのでしょうか。
僕は専門的なことは何も知らないし、勝手に想像したほうが面白そうなので、落ち葉の中の世界の住人である色とりどりの色素やカビのような微生物を登場人物として話を考え楽しんでいます。
落ち葉の有機的でありながら図形でもある形は不思議な世界を考えるのにもってこいで、窓枠や自転車の車輪、コンセントなどは、落ち葉の世界ではどんな風になっているのかなんて考えると楽しい気分になってきます。少し童話のような世界を僕は想像しているのですが、落ち葉は枯れていく一方なので、だんだんと寂しげで不気味な話へと変わってしまいます。ただ、枯れていく落ち葉とそこに刻まれた記憶の数々は妙に人なつっこい感じがして、いつまでも落ち葉とそれが想像させる世界を捨てることができないのです。
枯れていき自然へとかえっていく落ち葉に、なんとなく自分を重ねてみると、諦観すると同時に刻まれた記憶に対しての好奇心を感じます。
東京で暮らしていると何でも新しいものに作り替えられていき、記憶の跡に気付くことはあまりないですし、使用目的が決まっていますので、好奇心の入り込む余地も少なくなってしまいます。
それらはまるで終わりがないようで、自分がまるで変わらない流れの中にいるような気がして、ふと気が付くと歳をとることや老いていくことが周りに取り残され、なんだかとても恐ろしいことのように感じられてくるのです。
落ち葉を拾い上げ、そこに残された記憶の数々に思いをめぐらせると、自分の周りにも様々な記憶があったことを思い出す事ができます。
それは、キンモクセイの香りであり、夜の街灯での影遊びであり、つかんだトカゲのしっぽが切れた瞬間であり、寒い日の自分の口からの白い息に気が付いた時であり、初めて一人で布団に入って目を閉じた時に聞こえてきたネズミの足音でもあるわけです。
落ち葉のように、無数の記憶に囲まれながら少しずつ自然へとかえっていく姿を、心のどこかに置いておくと、毎日の中の記憶にも色や形や模様のような特別な思いを込めることができるような気がします。
ほうっておくとゴミのような落ち葉も、拾い上げ観察すると、心の糧ともなるわけです。
落ち葉のリサイクルという個人的なロハス話でした。
余談ですが、僕は気に入った落ち葉を見つけると、ラミネ-ターで透明なプラスチックのフィルムを使い真空パックしています。本のしおりや窓に貼りつけたり、カメラに撮ったりするのに便利です。
落ち葉好きは、試してみてください。