夏休みのエクスタシー
こんにちは。お盆に生まれた大原です。
夏休みの思い出というテーマですが、今まで夏休みというものを数限りなく経験してきたはずですが、どうもさかのぼるほど鮮明な思い出が多いようで、ワカゾーな日々を過ごした(ごく?)最近のことはあまり思い出せません。
いや、思い出せるけれど、詳細は語れても色彩が語れないというか、、。
立体感のある記憶という形で残るのは、ある種の超越性を伴った体験に限れられるようで、そういったことはやはり幼年期に多いようです。
その理由として、超越体験(以下エクスタシー)は対象との心理的距離感に大いに関わりがある為だと思う。
歳をとると頭の中にある知識やら概念が、自己と対象との間の緩衝地帯として大活躍してしまいます。
ありきたりの例えでいえば、ガンジス河の写真や、「深い河」という情報体験をした上でインドに行っても、すでに頭の中にある心象風景を外界になぞるだけで終わってしまい、直接心に響いてこないケースが多いように。
概念のカケラもない幼児期はそれこそエクスタシーの連続でしょうが、
言葉を自由に使えるようになる幼年期あたりからは、それはけっこう特殊な体験になってくる。
だからこそ記憶にも残るのでしょうね。
ともかく僕の覚えているかぎり、最初のエクスタシー体験の相手は夏休みのミヤマクワガタでした。(誤解されそうな発言だなあ。。)
エクスタシー体験。。概念という距離感を持たないで対象に出くわすこと。
心の準備を持たないで不意打ちを食らうとき、うまくいくと対称との距離感がゼロになる。
→僕は一羽のカラスである。
ゼロとはいかなくても、距離感が縮まることもある。
→僕は自分と同じ大きさのカラスと話をした。
個人的な体験のレベルでは、あらゆることが起きえる。
だから小学生の時にに草原で1メートル近い巨大なキリギリスと邂逅したのも、個人的経験としては真実だと思っています。
この前バンジージャンプしたけどエクスタシーのかけらも感じなかったなあ。。
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コメント2件
おおはら | 2006.07.21 18:27
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こんにちわ。
けっこう前にベストセラーになってた本ですね。
まだ読んだことはありませんが、ぜひ読んでみたいと思います。
砂場あそびは自分が巨人になったり小人になったり視点がくるくる変わって面白かったなあ。
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大きくなって不憫に感じることって、ピュアな感動を感じる機会が少なくなったって思うことです。
『全てのことは小さい頃に砂場で学んだ』と思える自分でいたいなぁ(^_^)